マイケル・サンデル教授の講義を見てみた [社会]

運よくマイケル・サンデル教授の講義を見る事が出来たので自分なりの感想を書いてみたいと思います。

ですが「私は文系でも無く小説や書籍を殆ど読まないのでとても残念な内容です」と書いておきます。
又、同教授の書籍は全く読んでませんので「あくまで政治哲学の講義」の話です。

まず、高利主義、結果主義、の話が出てきます。
確かに、憲法や法律は人権や主義が必要だと気づかせてくれました。

最初に、凄い人がいるんだなぁ、と思ったのが、エマニュエル・カントの
「良き行いとは、善とは、自由とは」の概念です。
とても厳しく苦しく窒息しそうですが、これほど魅力的で引き込まれる概念は無いんじゃないでしょうか。
人が生きる為の行為さえも自由ではない、それは生理現象でしかない。
行為そのものから全て開放された自由と善のみが本物でそれには結果が影響されてはいけない。
結果が影響する、された、場合には、それは善とは言えない。
行おうとする事自体が善である。
もう、ここまでされると、カントの概念でいいでしょう、とさえ思えてきます。

物理世界と精神世界を区別している考えもありました。
これを元に話せるなら、どんだけ楽だろうかと思いました。

結果主義の話では、アメリカらしいと言うか、学生も白熱してました。
結果は努力が元にあるから当然与えられる権利だという意見が多かったと思います。
でも、教授が時間を掛けて「そうではない理由もある」と言ってましたが、日本人だからでしょうか、結果主義の話のかなり最初から
いやいや、偶然あなたが頑張った結果を評価してくれる世界にいるだけでしょ?
と考えてました。
連れも同じ意見でした。
身体能力絶対主義の社会だとハーバードで哲学の講義を聴いてる=社会地位が低い人、となる訳で。
生まれる場所、人種、宗教、両親、時代、性別、全て自分で選べるはず無いんだけどなぁ、と思いながら見てました。
やっぱり、最後には、教授も同じような内容に集約していました。

次に、同じハーバード大学のジョン・ロールズ著作「正義論(Justice)」が出してきました。
ロールズの「無知のベール」はとても優れた平等と中立の円卓を作ってくれます。
私も最初に聞いた時には、素晴らしいアイデアだと思いました。
ですが「無知のベール」の席に結果主義者や高利主義者は座ってくれるのか?
そんな事はないですね。
成果を出した人は進んで損をする確率の高い席に座る人は少ないでしょう。
善意、と言うならベールは必要無いです。
宗教者や原理主義者はベールがあると逆に困るでしょうし。
少なくとも貯蓄してる日本人の殆どは座らないと思います。

仮に「無知のベール」が、人が社会生活を始めた時から掛かっていたらどうなんでしょう?
これって、言ってしまえば、
神と言う名の絶対権力者がいる極端に情報制限された社会の中に住んでいる
のと一緒なんじゃないでしょうか。
外から見たら何て理不尽な社会だと思いました。
「知る権利」が大きく制限を受けているだけでかなり問題だと思います。

アリストテレスも出て来ました。
何でもアリです。
教授は今までの多くの社会哲学を出してきては「決定的な答えは出せていない」と言っています。
まあ、自分の論を進める必然としては必要なんでしょうけど。
長いです。
連れは横で聞き流してましたw
何時間あるんだろう、12時間デスカ・・・

いよいよ、コミュニタリアニズムの話です。
長かった・・・

正義や善は何を基準にするのか。
本当にそれ程壮大で厳格である必要はあるのか。
人は肉体と精神とが合さって初めて人である。
民主制の多数決に正義や善はあるのか。
利害は必然なのか。
コミュニティーという狭い中で判断と利害の殆どが決定されてるんじゃないか。
哲学は深く考える必要は無く、日々目の前に溢れていて、何時でも参加出来る。
進むだけじゃなく、立ち戻り改めて進む事も必要ではないか。
お互いがお互いの意見を聞き、それを元に自分の考えの原点に戻り改めて考えばより良い結果が出るんじゃないか。

終わりました。
見終わった感想は
「長い」
もう、クタクタです。
興味が無く無理に見たりしたら、最後には怒るか寝てしまいます。

と、いうのは置いといて・・・
全体として、どうも宗教が元にある前提で教授も生徒も話をしてるようで、無宗教の私には一部理解しにくい部分もありました。
更に他民族が当たり前の上なので、その辺りを良く理解して聞かないと???となってしまいました。
ですが、同じ内容を何度も何度も言ってくれるので、判り易いといえば易いと思いました。
対話形式で必ず対する意見を用意して、それから議論や説明するのは、理論が入り易いですね。
殆どが複数の例を出しての話なのでなおさらでした。
教授は試合での審判の役割だなぁ、と思って見てました。
自由なんですがある程度の制限を付けるんです。
進め方が上手いです。
だからと言ってコミュニタリアニズム大賛成、かと言うとそうでもなく。
コミュニティーを超えても絶対唯一の「神」を暗黙で認めてる以上
「神の行いは避けられない、しかたがない、そうあるべき」
とか、無理な考えもそれに共存してるんで、それってどうなの、と思います。
結局、どうやっても、人である以上何か暗黙の絶対の逆らえない真実は在って、それから逃れる事は無い、と思います。
生まれたての赤ちゃんは人の顔を既に区別出来て、喜怒哀楽も判断してる
人は子供の顔(目、鼻、眉、口等の位置関係)を無意識で「かわいい」と判断するようにDNAに刻まれてる
という感じでしょうか。

コミュニタリアニズムは一部賛成すると言うか、そうなってる、としか言えません。
どれだけ理論武装してても事実の方が圧倒的で、真実は1つ、認める以外ありません。
蕎麦アレルギーの人に「蕎麦は体に良い」と言っても、食べると拒否反応が出るのは事実で、それと一緒だと思います。
真実がどれだけ重要か、カメラマンやライターが命を賭けてそれを手に入れようとしてるのを見てても感じます。
正直、教授のコミュニタリアニズムよりカント理論にビックリでした。
それだけでも見て良かったです。

以上、文才無く大変めちゃくちゃです、すいません。
勉強してる人からすると、情けない内容なんでしょうが、恥は搔き捨てですw

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